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一生引退しない、輝き続ける
ルージュ世代にインタビュー④

バブル期にキリンビール株式会社に勤務し、今も愛され続けている「キリン一番搾り」を入社3年目にして開発。六本木ヒルズのバー「HEARTLAND」の支配人も務め、現在はイタリアンレストランをプロデュースする島田さんに、バブル時代のお話、人生を楽しむコツなどをお聞きしました。

(株)カーディナル 専務取締役

島田新一さん(58歳)

高校、大学生の頃はディスコに顔パスで通い詰めてました

高校生の頃から楽しいことを考えたり、企画したりするのが大好きでした。
それが高じて、高校生の分際でディスコパーティーを何度か企画。18歳の時には、酒も飲めないのに先輩の後押しもあって、六本木の『キャンティ』の上にあった伝説のパブ『ヘンリーアフリカ』を借り切って、女子高生や女子大生をたくさん集めてパーティーを開催しました。

当時、六本木に『六本木スクエアビル』という、地下2階から10階まで全部ディスコが入っているビルがあったんですが、最上階にある『KISS RADIO』に夜な夜な顔を出していたんです。そのうちに、お店の社長やスタッフたちに気に入られて顔パスで入れるように!結果的に、そのビルの中のお店3軒で顔パスになり、大学生の頃は週に3~4回はディスコ通いをしていました。試験前なのに先輩に呼ばれて、お店の中で試験勉強していたことも(笑)。
その後、会員制ディスコが流行った時期のメンバーカードは今でもとってあります。

遊びが仕事の成功に繋がったキリン新入社員時代

キリンビール株式会社に入社して最初の配属は名古屋でした。当時、名古屋もディスコブームで、次々と新しいディスコがオープン。でも、どのお店も商品が他社なんです。そこにキリンがどう営業で食い込んでいくかが課題でした。
そんな矢先、入社して初めてのGWに東京に戻ってきて六本木のディスコに行ったら、遊び仲間だった先輩の歌舞伎役者の市川右近(現在、市川右團次)さんと再会。ちょうど彼が名古屋に行く予定があるというので、名古屋で落ち合って一緒に『アビーム』という、右近さんの知り合いが経営していて当時名古屋No.1だったディスコへ。
深夜の営業終了間際まで右近さんと遊んでいたら、その会社の常務とお会いできて、名古屋に新しくできるディスコ『ベスティ』の店長を紹介してもらえることになったんです。入社4ヵ月目でまだ営業のイロハもわからない時期でしたが、会社の先輩に指導を仰いで無我夢中で営業しました。その結果、ディスコといえば他社ばかりの名古屋で、初めてキリンに決めてもらえる快挙を成し遂げました。嬉しかったですね!

ご縁を通して、名古屋のマスコミの方たちを紹介してもらえたお陰で、営業もトントン拍子。
当時名古屋で生まれた『ケリー』という雑誌の「夜遊び人名録」「名古屋いい男図鑑」では、「トレンディ島田」という名前でいきなりデビューさせてもらい、名古屋の繁華街・栄や錦に行くとちょっとした有名人扱いで、女性にもてました(笑)。

“キリン一番搾り”の開発、10億円売ったビアガーデンイベント、そして六本木の伝説のバー「HEARTLAND」支配人に

2年間の名古屋配属の後は東京へ異動。名古屋での営業実績を買われて、入社3年目にして「一番搾り開発チーム」に入ることに。

1987年にアサヒビールが出したスーパードライが大ヒット。キリンビール株式会社も商品開発に力を入れようと「若手で面白いヤツはいないか」と、僕に白羽の矢が立ったわけです。
ただただ良い商品を開発したいという気持ちで、チーム一丸となって楽しく仕事をさせてもらったのを思い出します。
キリン一番搾りの開発に関わるという素晴らしい経験が、“キリンビール”という会社に30年間勤めるモチベーションになったことは間違いありません。

キリン一番搾りの発売後、「今度はラガーを勉強しなさい」と言われました。その頃、販売強化策の一環として、勝新太郎さん、手塚理美さん、国広富之さん、松坂慶子さんなど、そうそうたるメンバーを起用して、日本で初めてのドラマ仕立てのCM『ラ党の人々』が制作されました。毎月、連続ドラマのようにCMの内容が変わる、というもの。
ところが、なんと私の配属日である、CM放映初日に勝新太郎さんが大麻事件で逮捕。これによって、起死回生を狙ったラガーのCMは全部お蔵入りになってしまいました。

キリンの看板商品に「大麻」という悪いイメージがついてしまったことを払拭すべく、健全なイメージのバルセロナオリンピック(1992年開催)のスポンサーになりました。
何か話題性のあるイベント開催を、ということで、後楽園ドームの駐車場に大型テントを張り、500席のフラメンコビアガーデンを203日限定で開催。 当時YMOなどを売り出した音楽プロデューサーであり、フラメンコギタリスト第一人者でもある川添象郎さんに現場監督を依頼。川添さんがプライベートジェット機でスペインのアンダルシアに飛んで、本場のダンサーを連れてきて実現しました。
当時、入社数年目の僕が10億円もの予算決済申請書を書いて提出! イベントは大成功して、売上も10億円。今じゃ考えられないバブル期ならではの豪華なイベントでした。

イベント時の集合写真
川添象郎氏と

入社後に研修を受けたこともある、六本木のビアホール『HEARTLAND・穴ぐら』『つた館』は、1986年にオープンし、好評を博したものの六本木6丁目の再開発計画に合わせて閉館。
それをもう一度復活させようということで、2003年に1杯500円でラッパのみをするスタンディングバーとして、六本木ヒルズ内に「HEARTLAND」がオープン。 私が支配人をした2年間、ワンコインバーとしては異例の年間3億円の売上を記録し、当時日本一の売上となりました。コンデナスト・トラベラーというアメリカ大手出版社の旅行雑誌で、世界トップバーの一つに入れてもらえたのも、バブル期の武勇伝の一つです。

キリンビール株式会社時代、人に恵まれて、様々な経験をさせてもらえたと思っています。

雑誌などで取材を受けることも多々ありました

バブル期の華やかな思い出は?

とにかくみんなが楽しめる合コンやパーティーをセッティングするのが好きでした。人を多く集める能力にたけていたかもしれません。
自分の誕生パーティーもド派手に企画。懇意にしている会社社長から芝浦沖で2艇のクルーザーを借りて、15ℓの一番大きいサイズのシャンパンを開け、ケーキはリストランテヒロのヒロさんに作ってもらい、集まったお客さんの8割は女の子だったという、今では半分冗談のような誕生パーティーを開催していました。

今は何をされていますか?

現在は、30年勤めたキリンビール株式会社を早期退職して、イタリアンレストランやバーなどを展開する(株)カーディナルで仕事をしています。
ここにいるのも本当に不思議なご縁のおかげなんです。
前述した、後楽園ホールにおけるビアホールイベント開催の前に、プロデュースをしていただいた川添さんに「島田君、本場のフラメンコを見たことがないだろう」と、新宿の伊勢丹会館にある、フラメンコが見られるお店「エル・フラメンコ」に連れていってもらいました。その時に、そのお店の経営者・三好三郎さんに初めてお会いしました。三好さんは、日本の外食産業において新しい発想を次々と取り入れて、一時代を築かれた方です。三好さんとの出会いがきっかけで「今度作るお店のプロデュースを手伝ってくれないか」とお声をかけていただき、当時は社員をしながら、お店のプロデュースをさせていただきました。
そんなご縁もあり、今、三好さんが作った会社(株)カーディナルにいます。

今は『イル カルディナーレ』というイタリアンレストランのプロデュースに携わっています。銀座店に次いで、赤坂店は2022年5月9日にオープンしたばかり。秋には銀座コリドー街に3号店がオープン予定で、今はそれに向けて準備中です。

人脈はどうやって広げたのですか?

人が好きで、人に興味を持って、いろいろな人とコミュニケーションを絶えずとってきたからでしょうか。高校生の時からディスコに通って、ちょっと背伸びをした人間関係を作れたのは、怖いもの知らずなところがあるからなのかな。バブル期には、お声がかかればいろいろなところに顔を出しました。
若い頃から頼まれれば、合コン、パーティーなどをセッティング。そうして動いていると、結果的に自然と人の輪が広がることに。
デザイナーズレストランブームの時期には、デザイナーの友人を通して、建築家の方々とも繋がりました。
バブル期に若手建築家のゴルフコンペに呼ばれて「コンペパーティーの幹事をして」と頼まれてやっていたら、黒川雅之さんをはじめ、名だたる建築家の方々が参加するゴルフコンペの幹事もすることになり、みなさんとお知り合いになれました。

20代の頃から始めた、軽井沢72ゴルフを貸し切って行う「軽井沢クラシック ゴルフコンペ」での幹事歴もすでに30年になりました。元首相から、ゴルフを始めたばかりの女子大生まで参加する“日本一お気軽で楽しいゴルフコンペ”をコンセプトに、今でも続いています。

人脈は、作ろうと思って作るのではなく、人のために何かすることの積み重ねで広がるのかもしれませんね。

変わらずアグレッシブに
楽しく過ごす秘訣は?

若い時は「24時間働けますか?」じゃないけれど、365日いつでも仕事!
でも年齢を重ねるごとに、オンとオフを明確に切り替えるようになりました。オフの時は、仕事を忘れてしっかり遊ぶようにしています。

レコードを聴くことは高校生の頃からの趣味ですが、レコードコレクションも気づいたら3,800枚ほどに。今も時間に余裕があれば週に2~3回レコード街をまわって、ソウルやAORの中古レコードを探しています。

単純に「レコードに針を落として聴く」ことが好きで、そこに音楽鑑賞の醍醐味を感じます。中古レコードを買ったら、まずは中性洗剤でキレイに洗うことから始めて、そのレコードに針を落とす。リフレッシュできて、日々の活力にもなります。
今の会社が経営するカフェ&バー『P.C.M.パブ・カーディナル・マルノウチ』で年に数回DJをするのも楽しみです。

あとは、できるだけ悩まず、心配せず、ポジティブ思考に持っていくようにすることが秘訣かな。 「病は気から」と言いますからね。悪いことがあっても、次に必ず良いことが起こると思うようにしています。

健康法を教えてください。

体を動かすことが大好き。学生の頃、真剣に取り組んでいたスキーの延長で、雪の時期はバックカントリースキーを楽しみます。スキー板にシール(滑り止め)をつけて、雪山を自分の足で登って降りてくるスポーツです。雪山は一人じゃ危ないので、ガイドさんを雇って、百名山またはオフピステと呼ばれるコース外を3~5時間かけて登って滑ります。

春以降はゴルフを楽しみます。
両方のスポーツを楽しむためにも、日頃ジムに通って運動もしています。

食事の面では年に3回ほど、基本的に3日間のファスティングを予定して実行します。
適度にデトックスされて、体調がいいです。

また毎朝、ヒューロムの低速ジューサーでにんじんジュースを自分で作っています。材料は、にんじん、りんご、レモン、セロリ。最近は、それに液体の高濃度ビタミンCも入れてます。

お酒も昔は毎日飲んでいましたが、今は健康のことを考えて週に2~3日は飲まないようにしています。

通っているジムではサウナにも入ります。ファスティングする際もサウナでしっかり汗をかくように心がけています。

人生100年時代、
今後どのように生きていきたい?

一生現役とまでいかなくても(笑)70歳までは現役で走っていきたい。
その後は、今の生活レベルをキープしながら生きていくことが一番の贅沢ではないかと思うようになりました。家族に迷惑をかけずにね。

そして、人生最後は自分が好きなことをしたい。 今、趣味で集めているレコードを流す「レコードバー」をスキー場の近くで営む、そんな好きなことをして余生を過ごせたら最高ですね。

ルージュ世代にメッセージ

年齢を重ねた今だからこそ「昔とった杵柄(きねづか)」ではなく、絶えず今の時代と対話しようとする気持ちを持ち続けることが大切ではないでしょうか。ITが必要なら、最低限は覚えて使えるようにするなど。

ミーハーであり続けるのも大事。行く店などついつい固定化しがちですが、新しいものにも一度は関心を向けてみる。百聞は一見にしかず、ですよ。

現代はコミュニケーションが希薄になっている時代ですが、足を運んで直に人と顔を合わせて話すことも大切ですね。そのほうが刺激になる、アイディアが浮かぶ、脳も活性化される、と良いことづくめな気がします。人生100年時代といわれる今、飲みながらバカ話をするのも若さを保っていられる秘訣ではないでしょうか。

島田新一さん(58歳)

1964年 東京都生まれ。キリンビール株式会社勤務を経て、現在は(株)カーディナル専務取締役。趣味は、レコード収集と音楽鑑賞、バックカントリースキー、ゴルフ。
座右の銘は「三昧(さんまい)」。仏教用語で、心を一つの対象に集中して動揺しない状態を意味する。

取材・文/Umi

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